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新日本と全日本の関係

馬場〜三沢時代
全日本プロレス旗揚げ当時、選手が足りない(当時日本プロレスはまだ健在)こともあり、国際プロレスの協力を仰いだ。その後も、そう頻繁にではないが、1970年代末まで国際プロレスとは交流があった。
ライバルである新日本プロレスとの交流はほとんど行われず、わずかに「夢のオールスター」(東京スポーツ主催)があるだけだった。その後、新日本から離れた長州力らジャパンプロレスと提携して交流を持つも、ジャパンプロレス崩壊後は独立姿勢を打ち出す。その後、坂口征二が新日本の社長となったことから交流が復活し、1990年2月の新日本プロレス東京ドーム大会への選手派遣、「日米レスリングサミット」(全日本、新日本、WWF(現:WWE)共催)などの交流があったものの、天龍らの離脱と猪木の新日本復帰により、その後は途絶えた。
プロレス多団体時代を迎え、団体交流が盛んになってからも、全日本では団体交流を行わず、「鎖国」と呼ばれる独立姿勢を保つ。しかし、1990年代も末になるとメンバーが固定していることによるマンネリ化が著しく、ついに「門戸開放」と呼ばれる他団体交流策を打ち出す。ただし、これはあくまで「他団体の選手を全日本に招請する」方針であって、UWFインターナショナル以外の団体については、全日本のレスラーが他団体に上がることはほとんどなかった。また、全日本プロレスを脱退したレスラーの復帰は、裏切り者は許さないとする馬場の方針で行われなかった。

三沢が社長になってからは、より積極的な団体交流を打ち出し、新日本の闘魂三銃士らとの対談がマスコミに掲載されるなどしたが、フロントとの対立であまり積極的な交流には至らなかった。


三沢離脱〜武藤時代
プロレスリング・ノア勢離脱による選手の穴埋めを図るため、かつて全日本に在籍した天龍や旧WARの選手、インディペンデントのレスラーが一気に参戦するようになる。また、新日本プロレスとの対抗戦を打ち出すことになるが、これが現在の武藤体制の誘因となったのである。「KAIENTAI-DOJO」のTAKAみちのくも定期的に参戦しており、外国人軍団「RO&D」を引っ張っていた時期もあった。

プロレスリング・ノアと全日本プロレス間は、お互いの方針から交流がなかった。しかし、2004年7月には、タッグマッチではあるが、三沢光晴 vs 武藤敬司の試合が行われ、2004年10月の武藤敬司デビュー20周年記念興行では、三沢と武藤がタッグを組んだ。武藤の新日本プロレス脱退、全日本プロレスの社長就任でこの両者の対戦の可能性は絶望的と考えられていたため、注目された。

2005年には新日本プロレスの提案により、全日本の三冠ヘビー級王座と新日本のIWGPヘビー級王座それぞれのベルトを賭けた、史上初のWタイトルマッチが両国国技館で行われ、小島聡が天山広吉を破り四冠統一王者になった。:2006年新日本プロレスG1 CLIMAX 2006に、小島聡が5年ぶり7度目の出場をし、準優勝を果たした。

日本テレビの地上波放送が打ち切られてからは、経営戦略として所属選手を少数に留め、他団体の選手やフリーの選手をうまく活用するようにしている。

全日本プロレスに参戦経験のあるバンピーロがメキシコで立ち上げたRXLLとは業務提携している。

2007年1月4日の新日本プロレス東京ドーム興行に全面協力することを発表。三冠ヘビー級王座のタイトルマッチが行われることも発表されている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  1. 2008/12/09(火) 03:10:59|
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