ジャイアント馬場と全日本プロレス
ジャイアント馬場の時代
日本プロレスに所属していたジャイアント馬場中心に結成。常にアントニオ猪木率いる新日本プロレスの異種格闘技路線と比較されつつも、一貫して「王道の純プロレス」を実践。
初期
馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし、幾多のスター外国人選手を招聘して人気を得た。力道山時代の「日本人レスラー対外国人レスラー」の系譜を受け継いだものだといえる。当時は新日本プロレスの格闘技路線と比較され、動きが緩やかな印象を与えた全日本のプロレスは一段低く見られがちな風潮もあった。現在では、WWEに代表されるアメリカンプロレスの源流を日本に紹介したこと、レスラーの高度な駆け引き、プロレス特有の「受けの美学」を見せたことなどが再評価の対象となっている。この時期に、ジャンボ鶴田(故人)、天龍源一郎、大仁田厚らを輩出する。またブッチャーやシークに代表される流血戦も多く、大仁田のFMWなどのインディー団体のデスマッチ路線の源流を作った、とする意見もある。
中期
馬場が、高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、日本テレビの役員が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は会長ポスト、後に社長に就任)。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。天龍、鶴田以外にも、新日本プロレスを離脱した長州力らジャパンプロレスの選手らがこの時期に参戦している。
後期
1988年、長く待望されていた三つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会における鶴田対スタン・ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は2日後鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが、後の鶴田対超世代軍・四天王の激戦を呼ぶ伏線となる。
1990年、天龍をはじめとする多くのレスラーがSWSに移籍し、存続が危惧される。だがジャンボ鶴田に、三沢光晴率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田率いる正規軍と超世代軍、外国人レスラーの戦いが主軸となる。
鶴田が病気のため、一線から退くと、戦いは四天王プロレスと呼ばれる形へ発展した。危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳細は四天王プロレス及び王道プロレスを参照とのこと)は先鋭化し続け、テレビ解説をしていた馬場に「解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。武道館大会は三沢社長時代までの90年代全般で、プレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で、「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本プロレスに所属していたジャイアント馬場中心に結成。常にアントニオ猪木率いる新日本プロレスの異種格闘技路線と比較されつつも、一貫して「王道の純プロレス」を実践。
初期
馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし、幾多のスター外国人選手を招聘して人気を得た。力道山時代の「日本人レスラー対外国人レスラー」の系譜を受け継いだものだといえる。当時は新日本プロレスの格闘技路線と比較され、動きが緩やかな印象を与えた全日本のプロレスは一段低く見られがちな風潮もあった。現在では、WWEに代表されるアメリカンプロレスの源流を日本に紹介したこと、レスラーの高度な駆け引き、プロレス特有の「受けの美学」を見せたことなどが再評価の対象となっている。この時期に、ジャンボ鶴田(故人)、天龍源一郎、大仁田厚らを輩出する。またブッチャーやシークに代表される流血戦も多く、大仁田のFMWなどのインディー団体のデスマッチ路線の源流を作った、とする意見もある。
中期
馬場が、高年齢を理由にタイトル戦線から退いた後には、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、日本テレビの役員が出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は会長ポスト、後に社長に就任)。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。天龍、鶴田以外にも、新日本プロレスを離脱した長州力らジャパンプロレスの選手らがこの時期に参戦している。
後期
1988年、長く待望されていた三つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わる(王座戦の決着としてはありふれた手段だった)。最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会における鶴田対スタン・ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。3冠統一は2日後鶴田により成されたが、この事件がきっかけとなって、全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが、後の鶴田対超世代軍・四天王の激戦を呼ぶ伏線となる。
1990年、天龍をはじめとする多くのレスラーがSWSに移籍し、存続が危惧される。だがジャンボ鶴田に、三沢光晴率いる「超世代軍」が挑む構図が生まれ、新たなブームを引き起こして再生。鶴田率いる正規軍と超世代軍、外国人レスラーの戦いが主軸となる。
鶴田が病気のため、一線から退くと、戦いは四天王プロレスと呼ばれる形へ発展した。危険度の高い技を次々と繰り出すスタイル(詳細は四天王プロレス及び王道プロレスを参照とのこと)は先鋭化し続け、テレビ解説をしていた馬場に「解説できない」と言わしめるほどだった。この時期に空前絶後の利益をおさめ、年間7回の日本武道館大会を中心に経営的な成功を勝ち取る。武道館大会は三沢社長時代までの90年代全般で、プレイガイド発売即チケット完売となるほどの人気で、「王道プロレス」のキャッチコピーが浸透した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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